言葉の力|安西先生「あきらめたらそこで試合終了ですよ」——うまくいかない今日で、全部を終わりにしない

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「あきらめたらそこで試合終了ですよ」

井上雄彦『SLAM DUNK』の安西先生の言葉。名セリフ紹介で確認した表記です。原作の語句・句読点・場面は公開前に最終照合が必要です。

一度うまくいかなかっただけなのに、これまでやってきたことまで頼りなく感じる日があります。

書いた文章に反応がない。
勉強したところを思い出せない。
勇気を出して提案したのに、通らなかった。

「やっぱり、自分には向いていないのかもしれない」

そう思ったとき、安西先生の言葉を思い出します。

ここから先は、作品の場面を説明するものではなく、この言葉を日常に重ねた私自身の受け止め方です。

今日の結果と、これからの可能性を分ける

今日うまくいかなかったことは、確かにあります。

悔しさを無理に消す必要はありませんし、「失敗ではない」と言い換えなくてもいいでしょう。

ただ、その一度の結果だけで、これから先まで決めなくてもいいのだと思います。

「今回は伝わらなかった」と、
「自分の言葉は二度と伝わらない」は違います。

「今日はできなかった」と、
「自分にはできる日が来ない」も違います。

落ち込んでいるときほど、その間を一気に飛び越えてしまいます。だからこそ、まずは今日の出来事を、今日の大きさに戻してみたいのです。

続けることは、同じ方法を繰り返すことではない

もう一度取り組むとしても、まったく同じやり方でなくてかまいません。

文章が長すぎたなら、伝えたいことを一つに絞る。
勉強が進まなかったなら、時間より範囲を小さくする。
一人では難しかったなら、誰かに相談する。

やり方を変えることまで、「あきらめた」と呼ばなくてもいいでしょう。

続けたいものを守るために、続け方を変える。そんな選び方もあります。

休むことを、試合終了にしない

この言葉を、疲れた人へ「まだ頑張れ」と押し付けるためには使いたくありません。

健康や安全を犠牲にしてまで続ける必要はありません。合わない場所から離れることや、別の目標を選ぶことも、自分で決めてよいことです。

私がこの言葉から受け取りたいのは、「どんなことでもやめてはいけない」という命令ではなく、落ち込んだ勢いだけで、自分の可能性を閉じなくてもよいという視点です。

今日は休んで、明日あらためて考える。
次に試したいことを、一行だけ残しておく。

それくらいの小さな余白があれば十分な日もあります。

今日の結果で、全部を終わりにしない。
続けるか、変えるか、休むかを、少し落ち着いてから選ぶ。

そんなふうに、この言葉を持っておきたいものです。

言葉の力|ヘレン・ケラー『一人でできることはわずかでも、一緒なら多くのことができる』(本記事訳)

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“Alone we can do so little; together we can do so much.”

一人でできることはわずかでも、一緒なら多くのことができる。(本記事での訳)

ヘレン・ケラー(米国盲人財団の引用集掲載)

「大丈夫です。一人でできます」

そう答えたあとで、こっそり困っていることがあります。本当は手伝ってほしい。でも、相手も忙しそうだし、できない人だと思われたくない。

その結果、仕事も家事も、頭の中の心配事も、自分一人の担当になってしまう。

今日の言葉は、そんな抱え込みに、別の見方をくれます。

「一緒に」は、能力を否定しない

米国盲人財団の引用集は、この一文を、ヘレン・ケラーとアン・サリヴァンの舞台出演用台本の言葉として紹介しています。

一人の限界を嘆くのではなく、誰かと力を合わせたときの可能性に目を向ける言葉。私はそこに、「全部自分でできることだけが立派なのではない」というメッセージを感じます。

自分にできることと、相手にできることは違います。その違いを持ち寄ることは、どちらかが劣っている証明にはならないでしょう。

むしろ、違うからこそ助け合える。そう考えると、頼むという行為の見え方も変わってきます。

頼む前から、断らないでいい

誰かにお願いしようとして、「きっと迷惑だろう」と引っ込める。相手がまだ何も言っていないのに、自分で自分の依頼を断ってしまう。

気遣いのつもりですが、相手がどう感じるかまで、こちらで決めているのかもしれません。

もちろん、頼めば必ず応じてもらえるわけではありません。相手には相手の事情があり、断る自由もあります。

だからこそ、「この部分だけ手伝ってもらえる?」「難しければ大丈夫」と、必要なことを具体的に伝える。相手に選んでもらえる形で、助けを求めてみる。

全部を預けるか、全部を抱えるか。その二択ではなく、一部分だけ一緒に考えるという道もありそうです。

助けてもらう側にも、できることがある

人に頼ったあと、「申し訳ない」とばかり言ってしまうことがあります。

でも、どこが助かったのかを言葉にして伝えることもできます。「確認してくれたので安心できた」「一緒に考えてもらえて整理できた」。

それは、お返しを急いで用意することとは違います。相手の働きかけを、ちゃんと受け取ったと伝えることです。

この言葉を、私は「人と一緒なら何でも解決する」という保証ではなく、一人で抱える以外の選択肢を忘れないための言葉として受け取りたいと思います。

今日、どうしても進まないことがあったら、自分の能力を責める前に考えてみる。

これは、本当に一人でやる必要があるのだろうか。

「手伝って」と言う一言が、誰かと一緒に進むための、最初の一歩になるかもしれません。

言葉の力|松下幸之助『自分には自分に与えられた道がある。』

「自分には自分に与えられた道がある。」

松下幸之助『道をひらく』より。引用出典:PHP研究所の書籍紹介

誰かの近況を見て、急に自分の歩みが遅く感じられることがあります。

新しい仕事を始めた人。勉強を続けて資格を取った人。ずっと抱えていた目標を、形にした人。

「よかったね」と思う気持ちは本当です。それでも、そのあとに小さな焦りが残る。

私は何をしているのだろう。
このままでいいのだろう。

そんな日に、松下幸之助さんのこの言葉を読み返したくなります。

人の道を見て、自分の道をなくさない

『道をひらく』の冒頭では、自分に与えられた道について、広いときも狭いときも、上りも下りもあると語られています。また、他人の道に心を奪われて立ちすくむのではなく、自分の道を歩むことへと話がつながります(PHP研究所の書籍紹介)。

ここから先は、私なりの受け止め方です。

人と比べて苦しくなるとき、私たちは相手の「見えている結果」と、自分の「まだ途中の姿」を並べているのかもしれません。

相手がそこへたどり着くまでの迷いや、表に出していない苦労は、こちらからは見えません。

一方で、自分の足りないところはよく見える。

その比べ方では、自分の道ばかりが頼りなく感じられてしまいます。

誰かの歩みを参考にすることと、自分の歩みを否定することは、同じではありません。

「あの人の方法は、少し取り入れてみたい」

そう思えたなら、学べるところだけを受け取る。それ以外まで、同じにしなくてもいいのだと思います。

自分らしさは、小さな選び方にも表れる

「自分の道」と言われても、特別な才能や大きな夢が必要な気がするかもしれません。

でも、私はもっと身近なところにも、自分の道はあると感じます。

予定を詰め込みすぎない。
わからないことを、わからないままにしない。
誰かの頼みを引き受ける前に、自分の余裕を確かめる。

そうした選び方にも、自分が大切にしたいものは表れます。

目立つ成果にならなくても、今の暮らしに合う方法を探すことには意味がある。

人と同じ速さで進むことより、続けられる歩き方を見つけることが必要な時期もあるでしょう。

歩き方を変えてもいい

この言葉を、「今いる場所で我慢し続けなければならない」という意味にはしたくありません。

私なりには、自分の道を大切にすることと、今の方法に固執することは別だと受け止めています。

疲れたら休む。
一人では難しければ、誰かに相談する。
合わないと感じたら、やり方を見直す。

それも、自分の暮らしを自分で選び直すことです。

今日は、誰かに追いつくためではなく、自分が少し納得できることを一つ選ぶ。

後回しにしていた用事を片づけてもいい。
反対に、無理に入れた予定を一つ減らしてもいい。

人の道がまぶしく見える日にも、自分の足元まで暗いと決めなくていい。

今立っている場所から、自分に合う歩き方を考えていきたいものです。

言葉の力|ゲーテ『急がずに、だが休まずに。』——焦りと歩みを、同じにしない

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「急がずに、だが休まずに。」

ゲーテ。引用表記:東進の名言紹介に掲載された日本語訳。

誰かの成果を見たあと、急に自分の予定を増やしたくなることがあります。

もっと勉強しよう。
もっと仕事を進めよう。
今日こそ、遅れを取り戻そう。

それまで自分なりに歩いていたはずなのに、いつの間にか「追いつくための一日」に変わっている。

そんなとき、ゲーテの言葉として紹介されている「急がずに、だが休まずに。」を読むと、焦ることと進むことは違うのだと考えさせられます。

「急がずに」と「休まずに」の間にあるもの

この言葉には、一見すると反対の方向を向いた二つの表現があります。

急がない。
けれど、歩みは止めない。

私には、その間に「自分の速度を持つ」という考え方があるように感じられます。

ここから先は、私なりの解釈です。

急ぐとき、私たちは、ときどき自分の足元よりも、遠くにいる誰かを見ています。

あの人はもうできている。
同じ時期に始めたのに、自分はまだここにいる。
このままでは間に合わない。

もちろん、本当に期限が迫っていることもあるでしょう。

でも、誰かとの比較から生まれた焦りまで、すべて今日の予定に入れなくてもいいのだと思います。

今の自分に必要なことと、焦った勢いで増やしたこと。

その二つを分けるだけでも、今日やることは変わりそうです。

遅い歩みまで、失敗と呼ばない

すぐに結果が見えないと、続けていることまで頼りなく感じられます。

少しずつ読んでいる本。
何度も直している文章。
繰り返し練習していること。

「これだけやって、まだこの程度なのか」

そう思うと、もっと速く、もっと多く、と自分に求めたくなります。

でも、私は、速さだけでは見えない変化も確かめたいと思います。

以前は意味がわからなかった一文を、今日は読めた。

昨日まで気づかなかった不自然な表現を、自分で直せた。

できなかった理由を、少し具体的に言えるようになった。

まだ目標に届いていなくても、途中にある変化まで、なかったことにはしない。

遅いという評価だけで、今の取り組みを片づけたくないのです。

休息を禁じる言葉にはしない

一方で、「休まずに」という部分は、疲れている人には厳しく響くかもしれません。

だから、この言葉を、そのまま毎日の義務にしたくはありません。

私なりには、休息を取らないことではなく、休んだあとに戻れる道を残しておくことへと引き寄せて読みたいと思います。これは原意を断定するものではなく、暮らしの中での私自身の受け止め方です。

今日はここまで、と区切る。

次に取りかかる場所を、一行だけ書いておく。

今の方法が合わなければ、続け方そのものを見直す。

休むことと、もう二度と取り組まないことは同じではありません。

一日空いたからといって、それまでの時間が消えるわけでもないでしょう。

続けることを、「一度も途切れないこと」だけにしないでおきたいと思います。

今日の一歩を、自分で選ぶ

この言葉を読んで、私が今日考えたいのは、「どれだけ頑張れるか」ではありません。

「今の自分は、何を一つ進めたいのか」です。

誰かに追いつくための予定ではなく、自分が必要だと思うことを選ぶ。

本を一ページ読む。
気になっていた連絡を返す。
書きかけの文章の、最初の一文を整える。

それ以上できる日もあれば、そこで終わる日もあるでしょう。

焦りは、早く進めと急かします。

けれど、歩みは、次に足を置く場所を選ぶことから始まります。

今日の速度を、誰かの成果に決めさせない。

急がずに、自分の一歩を選ぶ。

そんなふうに、この言葉を持っておきたいものです。

言葉の力|タモリ『やる気のある者は去れ。』——頑張りすぎて、見えなくなるもの

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「やる気のある者は去れ。」

タモリ。引用出典:『脱力名言。』の内容を紹介したダイヤモンド・オンラインの記事。

「もっと頑張らなければ」

そう思うとき、頭の中には、たいてい一つの目標があります。

成果を出したい。
認めてもらいたい。
期待に応えたい。

そのために準備を重ねて、気を張って、失敗しないように先回りする。

ところが、一生懸命になるほど、周りの声が聞こえなくなることがあります。

そんなときに読むと、少し驚くのが、タモリさんの「やる気のある者は去れ。」という言葉です。

やる気があるのに、なぜ「去れ」なのか

ダイヤモンド・オンラインの記事では、この言葉に関連して、タモリさんが、やる気のある人は「中心しか見ていない」と語ったことを紹介しています。お笑いでは周辺から面白いものが始まるのに、そこを見落としてしまう、という指摘です。

ここから先は、私なりの受け止め方です。

この言葉は、努力する人を否定するためではなく、力が入りすぎたときの視野の狭さを問いかけているように感じます。

「こうしなければ」と決めた瞬間に、それ以外のものが見えなくなる。

予定どおりに話そうとして、相手の表情を見落とす。
自分の考えを伝えようとして、相手の言葉を最後まで聞けなくなる。
役に立とうとして、頼まれていないことまで引き受ける。

どれも、悪気があるわけではありません。

むしろ、よくしたいと思っている。

それでも、その熱心さが、目の前の人や状況から少し離れてしまうことはあるのでしょう。

力を抜くことは、雑にすることではない

「力を抜く」と聞くと、手を抜くことのように感じるかもしれません。

でも、私は、その二つを分けて考えたいと思います。

手を抜くのは、必要なことを省いてしまうこと。

力を抜くのは、必要以上に自分を固くしないこと。

準備はする。
約束は守る。
わからないことは確かめる。

そのうえで、「絶対にうまくやらなければ」という気持ちを少し緩める。

すると、予定にはなかった話を聞く余地や、間違いを認めてやり直す余地が残ります。

立派に見せようとしなくても、相手の話をきちんと聞ける。

完璧に答えられなくても、「それは知らなかった」と言える。

そういう余白も、人と向き合うときには大切にしたいものです。

自分の頑張りより、目の前にあるものを見る

何かがうまくいかないと、私は、頑張る量を増やすことばかり考えてしまいそうです。

もっと準備する。
もっと説明する。
もっと自分が動く。

でも、その前に、一度見直せることもあります。

相手は、今どんな反応をしているのか。
本当に求められているのは何なのか。
自分だけで話を進めていないか。

頑張りを増やすのではなく、見ている範囲を広げる。

この言葉の面白さは、「やる気」というよいものに見える言葉を、いったん疑わせてくれるところにあると思います。

今日、人とのやり取りで少し力が入っているなら、すぐに答えを出さず、相手の言葉をもう一つ聞いてみる。

何かを証明しようとする前に、目の前で起きていることを見る。

自分の頑張りでいっぱいだった場所に、誰かが入れる余白を残す。

力を抜いたからこそ、受け取れるものもあるのかもしれません。

言葉の力|相田みつを『しあわせは いつも自分のこころがきめる』

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「しあわせは いつも自分のこころがきめる」

相田みつを。引用表記:光華学園の紹介記事。

一日が終わるころ、できなかったことばかり思い出す日があります。

返せなかった連絡。
進まなかった片づけ。
思うようにいかなかった仕事。

朝には、もう少しいろいろできるつもりだったのに。

そんなふうに一日を振り返ると、何も残らなかったような気持ちになることがあります。

相田みつをさんのこの言葉は、私には、今日を見る角度を少し変えるきっかけになります。

「幸せに思わなければ」と、自分を追い込まない

「しあわせは自分のこころがきめる」

この言葉を、つらいことまで気の持ちようで片づけるためには使いたくありません。

悲しい日は、悲しい。
疲れているときは、疲れている。

苦しい気持ちを無理に明るい言葉へ変えなくてもいいと思います。

ここから先は、私なりの受け止め方です。

この言葉は、「幸せを感じられない自分が悪い」と責めるものではなく、自分が何を心地よいと感じるのかを、他人任せにしないための言葉として持っておきたい。

誰かにとって充実した一日が、自分にとっても同じとは限りません。

たくさんの予定をこなすより、静かに食事ができたことにほっとする日もある。

遠くへ出かけるより、家でゆっくり過ごせたことがうれしい日もある。

自分にとってのよさは、自分の暮らしの中で確かめていいのだと思います。

今日の中に、少し楽だった時間はあったか

大きな幸せを探そうとすると、何も思いつかないことがあります。

そんなとき、私は問いを小さくしてみたいと思います。

「今日は、少しほっとした時間があっただろうか」

温かい飲み物を飲んだとき。
用事が一つ終わったとき。
誰かと短い言葉を交わしたとき。

その時間があったからといって、一日の大変さが消えるわけではありません。

それでも、嫌なことだけで今日のすべてを塗りつぶさずに済むかもしれません。

うまくいかなかったことがあった。
でも、少し楽だった時間もあった。

両方が本当でいいのだと思います。

何も見つからない日は、休むことから

もちろん、ほっとした時間さえ思い出せない日もあるでしょう。

そんな日にまで、よかったことを無理に数えなくてもいい。

「今日はしんどかった」

そう認めて、一日を終えることも、自分を大切にする選び方だと思います。

今夜できることがあるなら、明日の自分を少し楽にすることを一つだけ。

急がない用事は明日に回す。
気になっていたことを紙に書いて、いったん手放す。
今日はここまで、と区切りをつける。

幸せという言葉が遠く感じられるなら、まずは「少し楽」を選ぶだけでもいい。

今日が理想どおりではなかったとしても、その一日を過ごした自分まで否定しない。

誰かの基準で立派な一日ではなくても、自分がほっとできる時間を、暮らしの中に残していきたいものです。

言葉の力|夏目漱石『汝の現今に播く種は、やがて汝の収むべき未来となって現わるべし』

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「汝の現今に播く種は、やがて汝の収むべき未来となって現わるべし」

夏目漱石、1901年3月21日の日記より(サライ掲載)

未来のことを考えると、つい「いつか」に期待してしまいます。

いつか時間ができたら。いつか余裕ができたら。いつか自信がついたら。

そのときには今より上手にできる気がする。でも、未来の自分が何を受け取るのかは、今日の自分とも無関係ではありません。

夏目漱石のこの言葉は、遠くにある未来と、目の前にある今日をつないでくれます。

「今まく種」とは、何だろう

サライの記事は、この一文を漱石が1901年3月21日の日記に記した言葉として紹介しています。

今まいている種が、やがて自分の受け取る未来として現れる。私はこの比喩を、大きな努力だけでなく、普段の小さな選択にも重ねて考えたいと思います。

わからないことを一つ調べる。約束を守る。相手の話を最後まで聞く。気になっていた仕事に手をつける。

その場では目立たなくても、後の自分が使える知識や、人との関係につながるかもしれません。

未来のための行動は、特別な日にだけするものではない。何気ない今日にも、種をまく場面はあるのでしょう。

芽が見えないからといって、無意味とは限らない

何かを始めると、すぐに結果を確かめたくなります。

勉強したのに、まだうまく答えられない。記事を書いたのに、思ったほど読まれない。丁寧に取り組んだのに、反応がない。

すると、「やっても意味がないのかな」と感じてしまう。

でも、種をまいたその日に収穫まで求めるのは、少し急ぎすぎかもしれません。見える結果の手前に、覚える時間、慣れる時間、伝わるまでの時間がある場合もあります。

これは漱石の発言の背景を断定するものではなく、言葉から私が考えた日常への重ね方です。

今日の結果だけで、今日の行動の価値を全部決めない。その余白があると、続け方を落ち着いて考えられそうです。

未来を、自分のせいだけにしない

一方で、この言葉を「今の結果はすべて過去の自分の責任だ」と読むのは避けたいと思います。

人生には、自分で選べない環境や、予想できない出来事があります。同じ努力でも、同じ結果になるとは限りません。

望む未来を必ず収穫できるという保証ではなく、自分に選べる行動を見つめる言葉として受け取りたいのです。

何をまくか。どんな手をかけるか。方法が合わなければ、どう変えるか。

全部を思いどおりにできなくても、今日の選択に少し関われる場所はあるかもしれません。

今日まく種は、大きくなくてもいい。読みたかった本を一ページ読む。誰かに感謝を伝える。明日の自分のために、一つ準備する。

言葉の力は、遠い目標を語るだけでなく、今日の小さな行動に意味を戻してくれるところにもあります。

未来を待つだけでなく、未来に渡すものを一つ用意する。

今の自分にできることから、静かに種をまいていきたいものです。

言葉の力|羽生善治『決断とリスクはワンセットである。』

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「決断とリスクはワンセットである。」

羽生善治『決断力』の言葉(国立国会図書館サーチの書籍紹介掲載)

「これを選んで、本当に大丈夫だろうか」

仕事の進め方を変えるとき。新しいことを始めるとき。少し大きな買い物をするとき。決めたい気持ちと、失敗したくない気持ちが並んで座ります。

もう少し調べれば安心できるはず。そう思って情報を集めたのに、選択肢が増えて、かえって決められなくなることもあります。

そんなとき、羽生善治さんの言葉は、決断に求めていたものを見直すきっかけになります。

決断から、不確かさだけを外せるだろうか

この一文は、羽生さんの著書『決断力』について、国立国会図書館サーチに掲載された書籍紹介で取り上げられています。

決断とリスクは「ワンセット」。短い言葉ですが、失敗の可能性をゼロにしてから選びたい、という願いに問いを投げかけます。

私はこれを、危険を気にせず進めという励ましではなく、不確かさを認めたうえで判断するための言葉として受け取りたいと思います。

調べて減らせる不安もあれば、実際に選んでみないとわからないこともある。その違いを見ることが、決める準備になるのではないでしょうか。

必要な情報と、欲しい保証は違う

たとえば、新しい道具を選ぶ場面を考えてみます。

サイズ、価格、機能、使う場所との相性。こうした条件を確認することには意味があります。

でも、一通り確かめた後も「絶対に後悔しない」という言葉を探し続けているなら、欲しいのは情報より保証なのかもしれません。

誰かにとって便利なものが、自分にも同じとは限らない。口コミを全部読んでも、未来の自分の感想までは載っていません。

そこで私は、「今回は何を優先するか」に戻りたいと思います。値段なのか、使いやすさなのか、時間なのか。条件に順位をつけると、比べる基準が見えてきます。

すべての不満を消す選択ではなく、大事な条件を守る選択を考えるのです。

リスクを見ることは、臆病とは限らない

今日の言葉を、勢いをつけるためだけに使いたくはありません。

もしうまくいかなかったら、何が起きるのか。どこまでなら引き受けられるのか。途中で見直せるのか。

そこを確かめることも、決断の一部でしょう。とくに健康や安全、大きなお金に関わることでは、専門家に相談する必要もあります。

小さく試せることなら、まず範囲を限って始める。戻せない選択なら、急がず慎重に考える。リスクを認めるからこそ、進み方を選べます。

これは、名言から私が考えた日常への重ね方です。決めた後の成功を保証する言葉ではありません。

それでも、「迷いが残る自分は駄目だ」と責める必要はないと思えます。迷いがあることと、判断する力がないことは別だからです。

不安を無理に消すのではなく、中身を確かめる。そして、今の自分に引き受けられる一歩を選ぶ。

決断とリスクがワンセットなら、勇気と慎重さも、一緒に持っていてよいのかもしれません。

言葉の力|やなせたかし――元気じゃない日も、生きている。

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「生きているからかなしいんだ」

やなせたかし作詞『手のひらを太陽に』より(歌詞掲載:歌ネット)

「今日も笑顔で」「前向きに頑張ろう」

そんな言葉に励まされる日があります。一方で、ちょっとまぶしすぎる日もあります。

悪気がないのはわかっている。でも、今の自分にはその元気がない。明るい言葉に触れるほど、明るくなれない自分が取り残されたように感じる。

そんな日に、違う角度から届いてくるのが、今日の言葉です。

明るい歌に、悲しいという言葉がある

『手のひらを太陽に』は、やなせたかしさんが作詞し、いずみたくさんが作曲した歌。NHK「みんなのうた」では、1962年に初めて放送されました。

元気な歌という印象があるのに、歌詞には「かなしいんだ」とあります。

生きているから、楽しい。生きているから、うれしい。それだけではないところに、この言葉の深さを感じます。

PHPの紹介記事では、やなせさんが、つらさや痛さも生きている証であり、喜びより先に悲しみを置いた理由を語っています。

悲しさを、間違った感情として扱っていない。私はそこに、静かな優しさを感じます。

感情まで、きちんとしなくていい

仕事で失敗した。大切な人とうまく話せなかった。楽しみにしていた予定がなくなった。

そんなとき、出来事そのものに加えて、もう一つ自分を責めてしまうことがあります。

「いつまでも気にしている自分は弱い」「もっと前向きにならないと」

悲しいだけでもしんどいのに、悲しんでいる自分にまで注意をしてしまう。心の中に、ずいぶん厳しい上司を置いているものです。

でも、今日の言葉に照らして考えると、少し違う見方ができます。

大切だったから、悲しい。期待していたから、がっかりした。うまくやりたかったから、悔しい。

その感情の奥には、自分が何を大事にしていたのかが隠れているのかもしれません。

言葉は、急かさずに寄り添うこともできる

もちろん、悲しみに必ず意味を見つけなければならないわけではありません。つらい出来事を無理に「いい経験だった」とまとめる必要もないでしょう。

今日の言葉を、私は「悲しみに耐えなさい」という意味ではなく、悲しいままの自分を否定しなくていい、という言葉として受け取りたいと思います。

言葉の力は、人を奮い立たせることだけではありません。止まっている人の隣に座って、「今すぐ元気にならなくてもいい」と伝える力もある。

今日は笑えなかった。それでも、温かいものを飲んで、少し休んで、一日を終えていい。

笑顔ではない一日も、あなたが生きた一日です。

言葉の力|松下幸之助『素直な心とは、いいかえれば、とらわれない心である。』

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「素直な心とは、いいかえれば、とらわれない心である。」

松下幸之助『実践経営哲学』より(PHP研究所掲載)

「もっと素直になったら?」

そう言われると、少し身構えてしまうことがあります。反論しないこと。相手に合わせること。嫌でも、はいと答えること。

素直という言葉を、そんなふうに受け取っていた人もいるかもしれません。でも、松下幸之助さんが語る素直な心は、少し違います。

素直さは、従順さとは違う

PHP研究所は、松下さんのいう素直な心について、何でも受け入れる従順な心ではなく、偏見や私心にとらわれず、曇りのない心だと説明しています。

つまり、誰かの言うことを全部正しいとするのではなく、自分の思い込みまで一度脇に置いて、目の前の物事を見ようとすること。

私はそこに、柔らかさと同時に、強さも感じます。

相手を否定するのも、自分を否定するのも、すぐにはしない。まず確かめる。そのひと呼吸が、今日の言葉につながるのではないでしょうか。

「いつものあの人」で決めつけていないか

たとえば、職場で誰かから改善案をもらったとき。「でも、その人は現場をわかっていない」と、内容を聞く前に結論を出してしまう。

逆に、尊敬している人の意見なら、内容を確かめる前に「さすが」と思ってしまう。

私たちの頭の中には、意外と忙しい受付係がいるようです。話の中身より先に、相手の名前を見て通すかどうか決めている。

もちろん、これまでの経験も大切です。ただ、経験が役立つことと、いつも同じ判断でよいことは別でしょう。

「誰が言ったか」を少し離れて、「何を言っているか」を聞いてみる。すると、苦手な人の言葉にも、一つくらい使える部分があるかもしれません。

考えを変えるのは、負けではない

自分が間違っていたと気づくのは、あまり気持ちのいいものではありません。

さっきまで自信満々だったぶん、引っ込みがつかない。説明を足すほど、言い訳みたいになる。そんな経験は、誰にでも思い当たるのではないでしょうか。

でも、「なるほど、その見方もあるね」と言えたとき、失うものばかりではありません。自分一人では見えなかったものが、一つ増える。

素直な心とは、自分の考えを持たないことではなく、自分の考えを更新できること。私は、この言葉をそう受け取りたいと思います。

相手に合わせるためではなく、よりよく判断するために、心を少し開く。

今日、誰かの言葉に「いや、でも」と返したくなったら、その前に一度だけ、「そういう見方もあるのか」と考えてみる。

素直になることは、自分を小さくすることではない。見える世界を、少し広くすることかもしれません。

出典:PHP研究所「素直な心」、「素直な心」になること~松下幸之助『実践経営哲学』に学ぶ